昭和45年05月18日 月次祭



 お芝居の用語とと言う用語と言う訳でもないですけれども。歌舞伎を語る方達がよく申します言葉の中に、花のある役者になりたい。花のある役者になる是は人気絶頂とかまたは芸が上手とか、という意味だけの事じゃないのです。何とはなしに花を感じる役者。花のある役者になれと言う事。私その事から思うんですけれども、信心をさせて頂いても、やはり花のある信者。もう大変なおかげを頂いてる。熱心に信心が出来ると。とただそう言う事だけではないのですね。花のある信者にお取立てを頂きたい。
 今日午後からの奉仕をさせて頂いておる時に、日田の高芝さんがお礼に出て来てあります。それでいろいろなお話の中に、あちら綾部さんが明日結婚式に呼ばれなさる。それは遠い親戚らしいですけれどもね。明日福岡の何とかホールで350人からのお客さん。それでもですね、何かと言うとです、その綾部に言うてくるとこういうわけです。ね。例えば結婚式場に、綾部さんがちよっと正装して式場に入って来られるとですね。それだけで、何とはなしにご祝儀だなという感じがすると言うんです。
 やっぱりそう言う意味において花のある人だと思うんですね。こりゃ信心じゃない人にもそんなんがありますよね。例えば御大祭なんかを拝まして頂きます。もう大体は久留米地区が二つに分かれて霊祭なんかを夏とか。報徳祭を奉仕されますけれども、善導寺の親先生なんかはもうどこの教会からでもどうぞ来て下さいと言う訳で。もうおいでておいでんでもよかとこにでも、そのまあ無理に言われなさるからまあおいでられます。
 それはどういう事かと言うと親先生は矢張り祭典の一つの花と言った様なものを身に備えておられますもんね。親先生が例えばここでも十何人の先生方が、まあ正装をこなされてお祭りを奉仕されます。でも矢張り何て言いますかね品が悪いと申しますか。なんとはなしにお祭りをこう打って崩す様な感じの先生が在るかと思うとですね。その先生が一人おられる事によってです、その御大祭が御大祭らしゅうなって来る訳です。
 それは親先生のお徳だと思いますね。やはり一つの花であります。そこでね私思うんですけれども、信心をさせて頂いてですね。例えばんならお広前ならお広前、教団なら教団の中にあってです。ね。あの氏子がおってくれなければ、あの先生がおんなさらなければ、あの信者さんがおられないとさみしい、いやその方がおられないと困る。その人でなかならければ出来ない。と言ったような、立場に立っての信心をなさる方は、私はひとつの花だと思うですね。
 さほどに熱心に信心は、言わば日参り夜参りはしてはないけれどもです。あの人がおらんと事が始められない。ちょいと電話掛けてからでもちょっと呼ばなと。と言うような人があります。ね。矢張りその教会なら教会での花だからなのです。いないと淋しいのです。事が運ばんとか、と言った様なことじゃないのです。ね。そういう私は、信者にお取り立て頂きたい。花のある信者にお取り立て頂きたい。ね。
 それは、それにまた熱心と、熱烈と言う事もです、勿論信心にはどうしてもそこを通らせて頂かなければ、だいち信心の喜びが湧きませんからね。その喜びこそが実は信心の言わば花なのですから。ね。心にそうした生き生きとした、言わば水もひたたる様な。まあ役者とでも申しましょうか。ね。そういう方達が、例えば普段着で外へ出る時でも、もう一見して歌舞伎役者だなと分かるようなね、感じの。今ごろはそういう花のある役者が大変少なくなりましたよね。
  だから最近言われる。花のある役者が昔のように多くいなくなった。少なくなったと。まあ、歌舞伎ファンが嘆きますようにです、信心者の中にもです、なんとはなしにね、そういう花のある信者が少なくなった。先ほど前講で今日秋永先生が話をしております中に、昨日丁度昼から、もう、夕方だったでしょうかね。ひょっこりやって見えてまあ、久しぶりで二人だけでの話とでも申しましょうか。
 丁度、私応接間でお客さんに応対しておりましたから、お客さん帰られた後、先生と二人でそれこそ信心の話、もう道のこと、教団のこと。私が本当に今考えておること。先生これは、あんたにばし聞いてもらわなきゃ分かる人はいないからね。こう言う話が出来た時々は、こうやって二人で、こんな機会をつくらなければいけないなと、言うて話したことです。ね。まあ、その中にです、ね、今日先生が一口、そのことを申しておりましたように、ね、最近の教団のまあ動きとい。
 かね、皆さんが脇殿に入られますと、正面に額が掛かっとりますね。要目と信心の要目というのが掛かっとります。ね。御取次を願い、御取次を頂くと。お取次ぎを願ってからの言わば手続きを、手続きを持って御取次を願うといったような事が。ここ二十年来ですかね、信心生活運動というスローガンとしてあのような生粋の言葉が掲げられて各教会に掲示されてあるわけでございます。
 ですから、もう事毎に道の教えの本当のところはです、御取次をいただいてからの事かと。手続きを踏んできてからの事かと。まずこれを聞かれます。ね。久留米の記念祭の時に信心辛抱という短冊が記念品に下がりました。あれを金光様にお書き下げを願うのにお願いにおいでられた時に、金光様もおっしゃっておられます。親教会のお取次ぎは頂いて見えられましたか。ということだったそうです。
 所謂その様に例えば手続きというものを大事にしていくと言う事がお道の信心のまあ中心の様に言われております。手続きを頂いて手続きを頂き、お取次ぎを願って来たかとこう言う訳なのです。ね。先月もある先生が病気をしておられます。そこの総代さんにある先生が、先輩の先生が仰っておられるのに、あんた方親先生が具合が悪いと言いなさるとに親教会にそれこそ手続きを持ってお願いに出よるかと。
 出よりません。そう言う事でどうするかと。おかげ頂かなでけんじゃないかと言うて、まあ細かなにその事の、事を教導しておられたという話を若先生が帰ってしておりましてから。成程そうだ。けれどもね私はこれはね、もう言うならばお道の信者、信奉者としては当然の事、当たり前の事としてですね、もう言わんでもすむ私は根底のものじゃ、言わばなかならければならないと思うんですよね。
 手続きを持って願って願うと言った様な事。ね。これはそれをいちいち正面に出してからのことではない。しかも私が最近言うております、ね、私共のお道の信心の、言わば素晴らしい事をです、世界の市場に出して世界中の総人類の、にこれを布教しなければならない。それにはね今までの生き方では、随分偉い先生方も世界の市場に言わば出されたけれども一向売れなかったと。
 という苦い経験ばかりであるから、それは受けられないはずだと。私が今言うておることならば絶対世界の市場に出して必ず売れる。受けると言う事を言っておるのが和賀心と言う事なのです。ね。いわゆる和賀心学なんです。和賀心学を治め和賀心を頂かせて頂く。そこに人間の幸せ幸福というのがあるのだと言うのならば、世界の隅々のどういう信心があろうがなかろうがその事を噛んで含めるように。
 いわゆる学問をしようと言う気があれば、学問的に説明するならばです、成程人間の幸福の根底はこれだと皆が分かって貰えれる程しの事なのだからと言っております様にですね。それをです例えばんなら世界のどこどこに持って行ってからです、いかに金光教のそれが神髄だ、と言うた所でです世界の誰彼にです、手続きを持ってお取次ぎを願って来たかなんて言ったて通用しませんものね。そうでしょうが。
 どげなんこってすか。そげなん事いちいちお取次ぎいただかなん。ってなんて問題は幸せになりゃあよかろうもん。と言うだろうと思いますよ。だから是は金光様の信心を頂いておる信奉者としては当然当たり前の事。子供が親を大事にすると言う事はもう当たり前の事の様にです。そう言う事が一々正面に出されて居る様な事ではね。んなら果たしてそこの例えば総代さんが手続きを持って願われた。
 願われればおかげになるか。そりゃち言ったらしらごつじやなかけ、おかげになるかもしれんばってん、それではおかげにならんて。その事がおかげにならん証拠に各教会を見たらいいじゃないか。手続きを持って願うていきよるばってんいっちょん御ひれいが立たんじゃないか。人が助からんじゃないか。と、もういちりんにして言えることなのです。ね。そこでです、私、秋永先生こういう事がね。
 今の教団で正面に出されておる限りね生きたものはなくなるて必ず。ね。ただ手続きを持って願うて来さえすればそれでいいと言う事になるのですから。所謂形式的な事なのですから言うなら。ね。それをまあ勿論形式があってはならない。けれどもですたい。そいう事よりももっともっと根本的な人間のおかげに繋がるもの、言うならば幸福に繋がるもの。ね。そこの所を打ち出していかなければいけないじゃないかと。
 私がこうやって、秋永先生にこうやって、あんたにこうやって今日こう話した事をです、もっともっと素晴らしゅうです。ね。例えて言うならば最近ここへちょいちょい見えられます甘木の平田さん当りでも、あたしが言うておるこの事をです、あんたに言う様に、あんたが分かる様に分からせきったらです、ね、道の上にもなんとかまちっと生き生きとした働きが出来ようけれども、そういうまだ時期でないわけ。ね。
 矢張りそれにはです、ね、是を見て下さいと言うおかげの一つの手本と言った様なものをもっともっと私が頂いて、ね、是を見よとなら是を頂いたのは是なんだと。今日の月次祭なんかは、是はもう月次祭の花ですよね。大盛台が四台も出て、それこそ大祭の様なお月次祭が出来てるんですからね。ね。これはまあ言うならば、お月次祭、言うならば私に花を神様が持たせて下さった。様にですそれがんならこちらがお広前の方にもです、お月次祭と言やあ、丁度ご神前に、ね。
 それこそ溢れる様なお供えが、ね、渦高く積まれております様にです。溢れる様にこのお広前がです、月次祭にたった四回のお月次祭に、もう義理にでもお月次祭にお礼に出らなければおられない程しのおかげを受けておる(何も入っていない)ね。だからこちらに、割れる様なですよね、例えば人がお礼参拝してくる様にならして頂く時に、愈々まあ私が世界の市場にどん出せれる自分の事ではなかろうかと言う風に思うのです。
 だから先生私とあんたがこうやって話してもうそのとおりの事そうどこじゃない。だからもっともっと、誰にでも分かりやすくこの事を伝えられて、それが皆に浸透していく。いわゆるそういう教団で言うておられる事はけして嘘じゃない。けれどもそれはもう当然の事として言わんでもよい事として、当たり前の事として私が言うて居る様な事がちっとはです、ね、荒削りだけれども。
 そういう金光様の信心とは是だ、かくだというものをです打ち出していけれる教団に、ならなければ教団が衰微すると言う。必ず教団全体が生き生きとしたものを変えてしまう。ね。とまあ教団の言うなら衰微論です。ね。盛衰。盛んになって行く事の為に、私んまあ教団を憂ゆう、まあおこがましい話ですけれども、現在私が言うておることがね、ほんとに教団で取り上げられ、それが正面に出て来るときです、初めて私は教団に生き生きとしたおかげであり、ひれいが輝く時であるというふうに私は思うと。ね。
 その根本のところが、ね、その根本の所をです私共がね、あんたのとこの親先生がいつまでも治りなさらんとは、手続きを持って願わん身体ではなくて、ね、私はその先生の事を聞きまして私もすぐ神様にお願をさして貰いましたらね、私御心眼にあの一葉一つ葉とも言いますけどね。昔おにぎりなんかを包んでいきましたよね。一葉にあれがこう一叢とこう生えておる所を頂いて、群生しますかね密生しますか。
 それがこの全部枯れかかっておると言った様な状態の所であった。だからではその人が、その先生がどういう難渋な、難儀な病気をしておられましてもです、ね、その病気そのものがです、難渋な事ではなくて、その病気そのものが神愛だと悟らしてもらえ、こうしていよいよ分かるところを分からしてくださるんだ。こうして教会に力をつけてくださるだと。例えば、肉眼を置いて心眼を開くとそこがよう分かる。
 ね。だから私、秋永先生に言うた事はです、とにかく肉眼の世界での事だけを教団では言うておるような感じがする。信心する者は、肉眼をおいて心眼を開けとおっしゃるが、心の眼を開かせて頂いてほんとのことが分かった。その本当のことを正面に打ち出しての、信心に、教団にならなければならない。ほんとなことが分かったら、その事に対してそれこそ、随喜の涙を流して有り難いと言わなければならない事なんです。
 それを困った事だと、それが大変な難儀な病気であった為にそれを聞かれた途端にガックリいかれましてね。まあ生死の境を彷徨うておられる程しに、まあ状態だと言う事でございます。ですからそういう所を例えば、道の教師なら教師、取次者がおかげを頂いてです。これは難儀な事ではなかった。こういう教会に御ひれいを頂かれる事の為のです、神様のご都合であったと分からせて頂くときに、その一葉が生き生きとして、生き生きとしてきて、それで沢山なおにぎりを包むことが出来るであろう。
 沢山な氏子がままになる所のおかげを包容していく事が出来るであろう。そう言うおかげを下さろうとしておる神様の働きと言う事をです、言わば無にしてただ、病気全快の事を取次を願って、手続きを持って取次を願えというとだけではですおかげにならんと。というふうな事を、その事を例話にもって申しました事です。ね。お互いね心にいわゆる信心の花と、花のある信者にお取り立てを頂く、花のある信者。
 ほんとに花のある信者がお参りをして参りますとね、お広前全体が何か知らんけれど、こう、なんかほんとにおかげ、ね、何とはなしに有り難い雰囲気が生まれて来る。もう、こちらが胸がドキドキするぐらいある。ん。それはその人の心の中に、花があるからです。ね。ああもうとにかくずるいとか狡いとかと言う事を、は言うけれどまあ信心しとりゃあそう言う事は言いも思いもしませんでしょうけれどもです、とにかくね。
 言うならばおかげのことばっかり思うてお広前にやって来るなんてのはもう、おおよそ花は無いですよ。ね。心に喜びの花が湧く。頂けるはずもないですよね。私長い間北京におりましたが、丁度今ぐらいの季節になりますとね、そのクウニャンというのは娘さんと言う意味なんですけども、もう娘さんがクシャンフォワと言うんですね。匂いの花。匂いの花を皆胸につけたり、頭に飾ったりして、その街を歩いております。
 もう電車の中ではそのニンニクの匂いとそのシャンフォワの匂いとがもう交互になるもう、ほんとにもっとするんですけれども、そのシャンフォワの香りだけは素晴らしい。ほんとこうやって振り向いて見ろうごとある。信心さして頂く者とこそですり合うときです、ね、そういう香りを持った様な、ね、花を持った信心信者をね、神様が求め、願っておられる。そう言う信心を願っておられるというふうに私は思うです。
 大昔頂きましたご理解の中に、味苦魅楽と言う事を頂きました。皆さんも覚えておられる方があるかしら。味苦というのは味わいの苦しみ、ね。味は味の素の味とくは苦労の苦が書いてある。味苦なんだ魅楽と言うのは楽に魅せられると。言う魅力の魅せられる。楽に魅せられる。私共が信心させて頂いてですね、その味苦魅楽という事、言わばその苦しみの中に味わいが分かるような信心。ね。
 そういう信心をせずに、楽の方にばかり憧れる。おかげの方にばかり憧れる。ね。言わば、楽な事にばかり魅せられておると言った様な事の中には、信心の花は無いと思いますね。苦しみの中に、その苦しみの中に、味わいを分かる。ね。それがです例えばいわゆる肉眼を置いて心眼を開かせて頂くと言った様な信心を聞き、自分も頂いて頂いていくところのおかげを頂かないとです。
 その苦労の、苦労のなんたるかと言う言が分からんから苦労は嫌だと言う訳になるのです。この苦労こそ有り難い。言わば神愛の現れであるとして分からして貰える様な音、おかげを頂かして貰わな、私は心の信心の花と言うのは育たないと思います。どうでしょうか皆さん、ほんとに私共が願いとする所がです、ね、花のある信者にお取り立てを頂きたい。それはどう言う事かと言うと。」
 勿論花のと言う事だから汚い花と言う事はありません。ね。それこそ屁クソかずらって言うんですかね。もう花盛りと言うぐらいに花は綺麗なんです。綺麗な物としてその信心の花が私の心の中に、求めてあるかあるかないかと言う事を一つ思わないけません。そして私が神様から、頼られておる私、神様に縋られておる私。願われておる私。そういうものをです、私は感じることが出来る程しの信心。
 そういう信心をです私は花のある信心、または信者だと言うふうに今日は申しました。まだいろいろにございましょう。とにかく何の花でもよい、心の中にです、ね、それこそ信心の喜びの花がね、心の中に感じられる様な信心を頂きたい。花のある信者にお取り立て頂きたい。ただこれは参るとか参らないとかという事ではない。ね。それに私は愈々熱烈な信心というか熱心な信心が出来ますときに、言わばその苦労が味わえる。
 もうそこには、苦労ではない、あるものは有難いものばっかり。ね。今日これも午後の私奉仕さして頂いておりましたときに、久留米の佐田さんが、最近お導きなった方を一緒に連れてまたお参りになっておられます。丁度私が二時半頃だったでしょうか、座ってない時間に座っておったもんですからもう大変喜ばれまして、本当におかげを頂いた。そして無駄な事は無いんだなと言う事を言うておられます。
 信心さして頂いとりゃもう、どうしてと言う事は絶対にないことが分かりましょうがと横に一緒に言うておられます。もうどうしてと言う事を言わんで済む様な信心を頂きたい。どうしてと言うことは絶対に言う必要が無い。もう神様はこうして分からして下さろうと、こうしておかげを下さろうとしておる事ばっかりしかない。それを私共がどうしてと言うからおかげがどっかに行ってしまう。
 そういう心の状態こそ、私は心の花だと思いますですね。もう一つ心の花。ね。心の花を頂かしてもらう信心。おかげを頂きましてから肉眼をおいて心眼を開けば、もうその場でその事がおかげと分かるのですけれども、なかなか肉眼をおいて心眼を開いておりません。けれども私共そこを体験を持ってです、そこん所の神様のおかげと、または神様のご都合というものを信じさしてもらう信心。
 それには今朝あたりから頂いておりますようにです、天地日月の心になること肝要なり。天地日月の心とは天の心とは、親が子を思う切なる親切な心と。これは普通で言う親切ではない。信心によって生まれて来る親切。それが天の心だと。地が黙って受けて受け抜いていく。受けてまた与えて行く。受けて育って行くそいう心が真だと。それが地の心だと。そういう心を願わして頂くと言う信心。ね。
 そういう信心こそ私心に、言わば花が頂けれる。いわゆる花のある信者として神様から目で、または大事にされれる内容というものがそこにあるとこう思うです。何と言うても神様に大事にされなければこの世で私共が幸せになることはできません。とにかく人からは、粗末に扱われても、人からは馬鹿にされても、神様が粗末に扱いなさらん。神様が馬鹿にはしなさらん。ね。
 そういう信心。そこには私はね、人情を捨ててほんとに心情に生き抜く。ね。それこそ、一にも神様、二にも神様。もし人が笑うてもそのような信心の姿勢というものが出来たところから花のある信心。または花のある信者という事が言えれるようなおかげが身についてくると思うのです。
   どうぞおかげを頂きました。